言葉にこだわる。言葉コンプレックスがあるからか。こうやって言葉を書き続けるのも認知行動療法的にはエクスポージャーってことになるのかしら。
以前、短期力動療法(認知行動療法と韻が似てますね)の導入と紹介に力を入れはじめた精神分析家の妙木浩之先生の研究会で『短期力動療法入門』(金剛出版,2014)という本を訳した。
先日、その本を京都の認知行動療法センターの先生にご紹介したらすぐに取り寄せてくださったらしく、しかもすぐに感想を呟いてくださった。それを読んだ私はこの本をとても読みたくなった。
訳者のひとりなのにおかしな話だが、本が読まれるためにはそれを紹介してくれる人が必要だ。魅力的な紹介がその本を誰かの手にとらせる。
私は2020年5月に「書評」なるものを書かせていただいたが、毎日、言葉コンプレックス(そんなものはない)との戦いなので「大丈夫、持っている言葉しか使えないのだからそれをガンバッテ使う」という気持ちで書いた。精神分析を学ぶ仲間が日本語チェックもしてくれた。あーあ。どう読まれるのかなぁ。
素材はマイケル・ジェイコブス『ドナルド・ウィニコット その理論と臨床から影響と発展まで』(誠信書房)。入門書として読むと盛り沢山で消化不良を起こすかもしれないが、ウィニコットの全体像をなんとなく形作るには良い本だし、すでにウィニコットの本を読んでいる人にはミニ事典のようで便利だと思う。
兎にも角にも言葉を使うということは本当に難しい。こんなに長年、使い続けているはずなのにどうしてかしら。でも、この限りなさこそが無意識を想定する精神分析を可能にしているのだろう、と私は思う。
これまで、認知行動療法の本を読んだり、セミナーにでたりしてみて、精神分析とは言葉の活用の仕方が本当に違うのだなあ、と大変興味深く思っていた。昨日、ここで、『精神分析における言葉の活用』(金剛出版)のことを少し書いたが、認知行動療法における言葉の活用についても聞いてみたい。
個人的な印象では、認知行動療法で使われる言葉は輪郭がはっきりしていて、治療者は、言葉がもつ多義性やイメージをうまくコントロールして、患者さんが焦点化すべき認知や行動の言語化を助けている感じがした。それは患者さんにとってとても安心できるプロセスだと思った。多分そこには精神分析とは異なる言葉に対するこだわりや工夫があるに違いない、と私は思っているのだがどうなのだろう。
今日も言葉をたくさん使った。量をこなせばうまくなる、という類のものではないこの「言葉」、失敗も多いが今日もありがとう、明日もよろしく、という気持ち。
中井久夫の『私の日本語雑記』(岩波書店)でもパラパラして眠ろうかな。夢ではどんな言葉を使うのだろう。夢の中だけでもいい感じだと嬉しい。