精神分析家、臨床心理士

岡本亜美のオフィス

東京、西新宿(初台)

精神分析をめぐる独り言

精神分析と言葉の活用

言葉にこだわる。言葉コンプレックスがあるからか。こうやって言葉を書き続けるのも認知行動療法的にはエクスポージャーってことになるのかしら。

以前、短期力動療法(認知行動療法と韻が似てますね)の導入と紹介に力を入れはじめた精神分析家の妙木浩之先生の研究会で『短期力動療法入門』(金剛出版,2014)という本を訳した。


先日、その本を京都の認知行動療法センターの先生にご紹介したらすぐに取り寄せてくださったらしく、しかもすぐに感想を呟いてくださった。それを読んだ私はこの本をとても読みたくなった。


訳者のひとりなのにおかしな話だが、本が読まれるためにはそれを紹介してくれる人が必要だ。魅力的な紹介がその本を誰かの手にとらせる。


私は2020年5月に「書評」なるものを書かせていただいたが、毎日、言葉コンプレックス(そんなものはない)との戦いなので「大丈夫、持っている言葉しか使えないのだからそれをガンバッテ使う」という気持ちで書いた。精神分析を学ぶ仲間が日本語チェックもしてくれた。あーあ。どう読まれるのかなぁ。


素材はマイケル・ジェイコブス『ドナルド・ウィニコット その理論と臨床から影響と発展まで』(誠信書房)。入門書として読むと盛り沢山で消化不良を起こすかもしれないが、ウィニコットの全体像をなんとなく形作るには良い本だし、すでにウィニコットの本を読んでいる人にはミニ事典のようで便利だと思う。


兎にも角にも言葉を使うということは本当に難しい。こんなに長年、使い続けているはずなのにどうしてかしら。でも、この限りなさこそが無意識を想定する精神分析を可能にしているのだろう、と私は思う。


これまで、認知行動療法の本を読んだり、セミナーにでたりしてみて、精神分析とは言葉の活用の仕方が本当に違うのだなあ、と大変興味深く思っていた。昨日、ここで、『精神分析における言葉の活用』(金剛出版)のことを少し書いたが、認知行動療法における言葉の活用についても聞いてみたい。


個人的な印象では、認知行動療法で使われる言葉は輪郭がはっきりしていて、治療者は、言葉がもつ多義性やイメージをうまくコントロールして、患者さんが焦点化すべき認知や行動の言語化を助けている感じがした。それは患者さんにとってとても安心できるプロセスだと思った。多分そこには精神分析とは異なる言葉に対するこだわりや工夫があるに違いない、と私は思っているのだがどうなのだろう。


今日も言葉をたくさん使った。量をこなせばうまくなる、という類のものではないこの「言葉」、失敗も多いが今日もありがとう、明日もよろしく、という気持ち。


中井久夫の『私の日本語雑記』(岩波書店)でもパラパラして眠ろうかな。夢ではどんな言葉を使うのだろう。夢の中だけでもいい感じだと嬉しい。

精神分析と言葉の活用2

今日の空は綺麗ですね。綺麗という字はなんかゴージャスな感じだからちょっと違う気もするけどせっかく変換されたので使いますね。月の色が濃くて星も見えます。でももう月は沈みかけだからちょっと不気味な感じになってるかも。美しさと不気味さはスペクトラムだったりして(雑ですね)。

ぼんやり歩いていると空だけでなく、いろんなシーンが目に入ってきます。小さくておいしい立ち食い蕎麦屋さんの店主のしかめ面、緑道と街道をゆく少しくたびれた白シャツの人たち、賑わいをみせる昔ながらの居酒屋、いつもならまだ開いているはずなのに真っ暗な本屋、薄暗い外観で休業日にみえたのに窓の向こうにみえたカップルの食事場面、などなど。

日本の精神分析家の妙木浩之先生は、『精神分析における言葉の活』(金剛出版)という本で寝椅子(カウチ )に横になって患者が話す叙述的な談話を「風景scenery」という言葉に言い換えています。


ここで妙木先生が援用するのは哲学者の沢田允茂(1916-2006)の『認識の風景』における「風景」です。そこでいう「風景」は「もの」ではなく、フッサールのいう「生活世界」だそうです。これは「日常的な生活のなかで、私たちが見て、行動している世界という程度の意味」で考えればいいそうです。

さらに、ここには「注」もついていて、妙木先生がよく活用する中井久夫の「風景構成法」のバイアスもあるかも、とも先生は書かれています。

この後、数ページにわたり風景の話が続きます。この章の名前が「心の風景としての精神分析」だから当たり前といえば当たり前なのですが、精神分析って言葉に対するこういうしつこさがあります。でもそれは仕方ないのです。その人の言葉が頼りだから。

分析を受ける人の言葉は、二者に通じる言葉の姿をしているにもかかわらず、分析の状況ではその人だけの言葉という色合いが強くなります。それはその後のプロセスで明らかになるその人の風景をあらわしています。だから言葉には細やかに注意をはらいます。

妙木先生ご自身は博覧強記で、印象は軽やかで、心理療法の世界でもその地図を描き、対話の場面を作り続けている方です。その分野の著作としては『心理療法の交差点―精神分析・認知行動療法・家族療法・ナラティヴセラピー』『心理療法の交差点2 短期力動療法・ユング派心理療法・スキーマ療法・ブリーフセラピー』(両方とも新曜社)があります。

が、この『精神分析における言葉の活用』の本はやや重く、最初に「対話」と「談話」を区別し、「風景」という言葉を定義づけ、精神分析における言葉の活用について密度の濃い議論が展開されます。妙木先生は多作ですが、私はこの本が一番好きです。

「精神分析における言葉の活用」は私のもっとも興味のあるところです。患者さんの言葉がなす風景のなかで、あるいは外で、私たちはどんな姿をして、どんな関係でいるのでしょう。それを教えてくれるのもまた言葉です。

今夜、私が出会った場面はいずれ私のこころの風景に登場するかもしれません。だってそれがこころに残ったのはなんからの理由があるでしょうから。

このSNS時代、言葉の使われ方は変わりました。それでもその人だけの言葉、その人だけの風景を大切にしていけたらいいなと思います。

こころと言葉

今、私を取り囲む本や書類の上や間や床やいろんなところに何かを書き散らかしたメモが散らかっている。自分の字なのにまるで読めないのだから残しておく意味などないのだけどなぜ捨てないのか。

いずれ読める日が来るとでも?そんなはずはない。ならいずれ読んでくれる誰かが現れるとでも?それはありうるかもしれない。周りの人に見せたら色々と解読してくれるに違いない。でも私がそれをしない。それにそれをメモする私はまたその読み方を忘れそうだ。

私にとってメモはその場限りの言葉なんだ、きっと。必要なのは内容じゃない。でも多分、だから大事で捨てられない。実際にはいずれ時がきたら捨てるのだけど。昔、日記や詩や文章を大量に書いたノートを全て捨てたのと同じように。一部はなぜか欲しいといってくれた友人にあげたけど。それにあれは読める字だったけど。


精神分析は主に言葉を使う。あえて「言語的」「非言語的」と分類する必要がないほど言葉をその人の全体として扱う。沈黙も息遣いも振る舞いも体験のすべてをあえていうなら前言語的な、赤ちゃんの泣き声のようなものとして扱う。なにがなんだかわからないのだけど、確実に私になにか伝えていて、どこか切迫感を帯びているまだカッコ付きの(言葉)。あるいは特になにが言いたいわけでもなさそうなんだけど、一緒にいるから出ているような、シャボン玉をただ吹いているような、春風に深呼吸するような(言葉)。

精神分析に限らず、どの治療法も万人向けではない。どれも誰にでも役に立つ部分を持ってはいるけれど実際に治療を受けるということは自分の生活の時間やお金といった現実的な側面を抜きには考えられない。だからその効果は簡単に比較できるはずもなく、その人が受けた治療を外側から簡単に価値づけすることは難しい。


特に精神分析ほど量的なものに馴染まないものはない。無意識を想定する精神分析はそこを無時間と考えるので、無×α=??なのだ。それでもそれまでの治療や何らかのきっかけからそこに意味や価値を見出した一定数の方たちは、そこにかけられる時間とお金を準備して頻度をあげることを希望する。そのとき精神分析は治療というより「精神分析」としか言いようのないものになるのだろう。「カウンセリングでは」というよりは「分析では」という表現を使うようになる。

言葉とこころの不確かな関係。私が読めないメモをなんとなくそばに置いておくのもそこに私のこころが残っている気がするからかもしれない。

言葉とこころの関係に悩み、そのどうしようもなさをどうにかしたい、という方は多い。どうにもならないことをどうにかしたい、というとき、それは原因探しや裁きや答え合わせを切望するこころとして解釈することもできるかもしれないが、不確かさや不快さに寛容でありたいという願いとして捉えることもできるだろう。

昔、とても嫌われて、あるいは嫌いになって、もしくは憎しみあって別れた人がいるとして、その人のことを語る言葉について考えてみる。それは時間と場所によって変化するだろう。外ではこう言ったけどここではこう言ってる、とか、あの時はこう思ったのに今はこう思う、どうしてだろう、など。こういうことは臨床場面でもしばしば語られる。

こんな風に、人のこころと言葉が一対一対応ではないことは誰もが知っていそうなのに、喧嘩をしたときに「ごめんね」を言わされて仲直りしたように見せかけたり思いこむようなことも私たちはしょっちゅうしている気もする。

自分のこころと言葉の不確かさ。精神分析はそことともにある。哲学者が心理士以上に精神分析を引用するのもそれが人間の全体を現すことをよく知っているからだろう。彼らもまた外からは不毛といわれても思索を止めることはしない。

私は今日もメモを書きつけるかもしれない。そしてまたそのままにして、そのうちますます読めなくなって、いずれどんな時に書かれたメモかも忘れるのかもしれない。それでもそのときそこで、あるいは今ここで私が考えていることは完全に消え去ることはないと思う。ここはこうして読める字に変換してくれるけど、たとえこのメモをすべて消去したとしても同じことだ。痕跡を残し、またどこかでそれと出会う。その繰り返しをこれからもしていくのだろう。

精神分析とエビデンス

眠ってはいけない、まだやることが、と思って珈琲を飲むなり寝てしまうことがある。効果って難しい。

エビデンス、という言葉、最近きかない気がする。勉強していないからか。そんなことはない。むしろアウトカム研究については最近集中して読んだ。

エビデンスという言葉の独り歩きは危険だぞ、ということは最近聞いた。その通りだと思う。

私はアウトカム研究は大切だと思っているので、精神分析に関するそれについては注意をはらっている。結果にというより、精神分析がいかに数値と馴染まないかということに学ぶ。なぜそうなのか。馴染まないとしたら、自分のしていることは一体なんなのか。

精神分析、という言葉が社会ではいろんな意味で使われ誤解され、専門家同士の会でもあまり多くない経験が精神分析から抽出された部分的なものによって知的な理論構築に使用されているように感じる昨今、週4回以上、カウチに横になって自由連想を行うことについて以前の分析家や海外の分析家のように細やかに考えていけたらいいなと思っている。多くの患者と彼らを取り囲む環境とじっくり関わりを続けることでしか見えてこなかったことを私は実践で少しずつ言葉にしていきたいと思う。

数値もそうだが、カウチ 、週4日以上という設定も、そこだからこそ生じる出来事も公とは馴染みがないこの技法は、心理療法のひとつとしては語れない、と私は思っている。公にできるとしたらそれは文化としての精神分析であって、患者との間に生じることは言葉にできるのはほんの一部であり、それにだって長い時間を必要とする。咀嚼と消化に時間をかけずに排出することは精神分析が持つ文化という側面も殺してしまうだろう。

数値どころか簡単に公の言葉にすることにも馴染まない精神分析。だからこそ信頼に足る、と私は思うが、どうだろう。

精神分析と訓練

起きてしまったことに対してその人がどういう態度を取るか、精神分析ではそれを反復という概念を用いて説明した。私たちには「いつもこうなる」というパターンがある。だからなんだ、といわれればそうなのだけど、精神分析では治療者と患者の間でもその反復のパターンが再演されると考えている。それは情緒、情動面の反復ももたらす。だから転移・逆転移というものが重要だとして、患者から自分に対して向けられたもの、あるいは自分が患者に対して向けるもの、そういうものに敏感であれ、しかし中立的であれ、と言った。

困難な要求だ。「反復」というだけなら簡単だろう。でもそう理解したところでお互いに気持ちが動くのは止められない。精神分析設定においてそれは特に強く動く。家族や恋人に対する感情が時に悲劇を(もちろん喜劇も)引き起こすほど強力な情緒を含むのと似て、精神分析設定で生じる情緒もまたここ以外では体験できないほど強力だ。


だから分析家になるためにあらかじめ訓練をする。それがどのようなところに達するかは人それぞれで、訓練を受けたから善人になるわけではないというのは間違いない。そういう曖昧な価値から精神分析は遠い。この設定で、この状況で起こりうることに近づくために、それを体験する。それだけだろう。

訓練を受けたら何にでも持ちこたえられて、しかも中立的でいられる、なんてことももちろんない。むしろそんなことはありえないことを深く知るだけだ。そのうえでそれを試みる。何度も打ちのめされ、何度も立ち直る。患者の苦しみを悲しみを「わかる」なんてことはない。常に二人の前に現れるのは錯覚であり、夢であり、ともに遊ぶように、ともに眠るようにを繰り返し、いずれ目覚め、それまでもどこかで知っていたような現実と出会っていく。

長く辛いことも多い作業だ。

本当に長い時間をかけて訓練分析家になったとしてもその年齢から持てる患者の数は限られている。それもまた現実なのだろう。何かが十分で、完全であることなんてない。

私は、若いときは実感を持って使っていた「こころを使う」という表現を安易に口にしなくなった。ましてや「十全に」などありえない。こころは使われるものであったとしても使うものではない。ウィニコットはgood enoughという言葉を使った。これもまた以前とは異なる意味を持つ表現として、私は慎重に使うようになった。

精神分析において転移−逆転移関係を生き、そこから現実と出会うプロセスで、生み出されるのは言葉なのではないか、ここでふたりでなにかをすることはいずれ解釈とも異なるふたりならではのことばを生み出すのではないか。

というのが今のところの実感。また変わるかもだけどそれはそれ、これはこれ。今は今、過去は過去とは思わないけれど。

精神分析とお金

決めのセリフというと決め台詞と少しニュアンスが違いますね。決め台詞というと「出た!」という感じがするけど(多分それぞれに思い浮かぶ台詞は違うでしょう)決めの台詞というとなんだかもう少し個人に向けられた感じ。そんなことないかもしれないけどそんな気がしました。

精神分析はアセスメントのあと始まってしまうと認知行動療法(CBT)のようにパッケージがありません。なので、その先は個々の患者と治療者の言葉に委ねられていきます。

精神分析は、生きることと死ぬこと、あるいは愛と憎しみの瀬戸際、子どもの性と大人の性の瀬戸際で人のこころを描き出してきました。そこには俯瞰してみれば似たような、近づいてみればまるで違う世界が存在しています。そのため、お互いが使用する言葉も似ているようでまるで違ったりします。決め台詞は共有されないかもしれません。

日本の精神分析家の北山修先生がきたやまおさむとして紡ぐ歌詞と、彼が精神分析家として語る言葉の違いは多くの人に通じる例かもしれません。あえて例を出せばということで、いつも付け加えるように、患者と治療者の二人がその場、その時間に使用する言葉はひとつひとつ全く異なるはずです。

同じ言葉に潜む距離、それが実感されるまでには長い時間がかかります。また、大抵の治療はお金がかかりますが、精神分析はそういった長い時間に伴った多くのお金がかかります。これは、それで生活をしている専門家の時間を買っているから、といえばそうですし、その専門知を、その存在を守るため、といえばそうなのかもしれません。ただ、これらの説明は一面的というか、専門家の側に立った言い方のようにも感じます。もちろん患者はいつでも辞めることができますので、そんなことはしたくないよ、となればやめればいいわけですが。

でもどうでしょう。私たちはそんなにはっきりキッパリした存在でしょうか。むしろ精神分析を受けにくる方は、自分のこころの曖昧でぐちゃぐちゃした部分に困っている方ばかりではないでしょうか。

そういえばこれは北山先生も強調するところですし、お金のことも『心の消化と排出』(作品社)という本に書いてあります。夏のブックフェアで『るのはつらいよ』(医学書院/シリーズ ケアをひらく)の東畑開人さんも選んでおられたのでご存知の方も多いかもしれません。

お金を払う、お金をもらう、ということについて私たちは普段そんなに意識的ではないかもしれません。私がよく知る心理職の間でも、同じ職種でこんなにお給料が違うのになんとなく理由をつけて済ませていることが多い印象があります。


親子の間でも子どもの側は親がどんなふうに自分にお金をかけているかについてあまりよく知らないでしょう。子どものうちは知る必要もないかもしれません。

子どもの精神分析的心理療法の場合、お金を払ってくださるのは保護者です。ということは、保護者が払わないと決めたら治療はそこで終わる場合もあるということです。そのときはじめてお金の問題が患者である子どもと治療者の間に切実な問題として立ち上がってくることがあります。私は、この局面がとても精神分析らしいと思っています。曖昧さを、どうにもならなさを、どうにかしようともがくふたりにこれまでとは異なる言葉が生まれてくるチャンスだから。切実な問題は二人を切り離しも近づかせたりもするのです。

さて、大人の精神分析の場合も、プロセスは少し異なりますが、時間とお金と言語という、形がありそうなのにあまりに曖昧で多義的なものに患者と治療者は出会っていきます。

もし訓練でこの部分が切り離されたらそれは精神分析ではないだろうと私は思います。セッションの頻度などの変数で比較する以前に。

長い期間、お金を払い続けたり、いただき続けたりするなかでお互いの生を繋ぎながら見えてくるのは、私たちがいかに曖昧なつながりを信じて生きているかということです。そしてそのつながりは関係性によって名前を変えます。それが繋がりになるか搾取になるか、今はこうでもいずれは別の言葉になるのか、こころも言葉も揺れ続けます。とても大変で切ないことです。


精神分析は転移ー逆転移という過去と現在が同期したり切断したりされる時空で行われるものなので、とにかくいろんなことが起きてしまうようです。これはお互いの真剣なプレイであって、「すること」以外には共有の可能性は低く、精神分析におけるふたりのあいだに決めのセリフは多分、ボルヘスのいうように身も蓋もないそれ自体ということになるのでは、というのが今のところの私の仮説です。

精神分析とアドバイス

太田和彦さんの本を読んで真似してお散歩がしたかったのですが、大雨警報が出たので断念。でももう空は明るいのです。断念したのに残念です。

久々にコンポでラジオをつけたけどなんだか音がよくありません。アンテナをあっちこっち動かして一番いいところで止めようとするとまたザーッといったりします。radikoで聴けばいいのだけどこういう動きがちょっと楽しかったりするので困ってはないのですが。


やっぱりアドバイスってちょっと面白くない、というか、その人の体験を薄めてしまうような気がするんですよね、突然話が飛びますが。


私の居場所である精神分析では、その人だけの感じ方とかそれを話す仕方とかを大切にするのでアドバイス文化(そんな言葉はないと思いますが)とは馴染みがありません。


多分、今、私がここで書いたことを直接話したりするとすぐにアドバイスをくれる人がいると思うのです。それはそれでありがたいのですが、どっちかというと体験をただ書きたいだけなのでここに書いています。


多分、コンポとか使ったこともない人もいると思うし、アンテナをあっちこっち動かすってどういうこと?という人たちもいると思います。私はつくづく昭和の人なので(昭和生まれの友人とちょうどそれで盛り上がりました)今ってすごいなあ、といろんなものを見たり聞いたりして思っています。


精神分析家の北山修先生が最近「きたやまWebinar」というのをはじめてそれもすごいと思いました。70歳を超えても新しいシステムを使いこなしてる・・・。メディアの人でもある彼はそういう場では北山ではなく「きたやま」なのですね。その使い分けはとてもわかる気がします。私はアナログなので新しい流れとはのんびりお付き合いだなあ、と思っています。アンテナ、あっちこっち動かしつつ。

精神分析と本

ビオンのセミナー記録を読んでいる。精神分析における大きな流れはフロイト、クライン、ウィニコット、ビオン、ラカンに代表されるだろう。サリヴァンやコフートもそうかもしれない。


今はビオンのセミナーを読んでいる。セミナー記録を読むときはそれが聴衆に向けた話し言葉であることに注意しないと学びにくいかもしれない。日本の精神分析家の福本修先生がビオンの『タヴィストック・セミナー』のあとがきで、セミナーの一部をネット上で見られることに言及して百聞は一見に如かずと書いている。そして「(笑)や(嘆声)(騒然)などと的確に加えられれば、更に分かりやすくなったかもしれない。しかし文字情報のみからそれを読み取るのは不可能」であるため「ビオンが真顔で極端なことを言っている箇所では、冗談が含まれている可能性を考えていただきたい」と書いている。文字からはビオンが「真顔」かどうかすらわからないけど。


「冗談が含まれている可能性」はとても大事だ。この前ここで書いたピグルの翻訳も治療セッションの記録なので翻訳がとても難しかった。そしてこれも前に書いたけど言葉とこころの不確かな関係は形にならない話し言葉にこそ現れるので文字にするのは難しい。


その点、まだ生きている(つまり会おうと思えば会える)日本の精神分析家の書いたものは雰囲気を捉えやすいので面白い。今は動画だって残せる。が、実際に会わなくても、動画を見なくてもその語り口が生き生きと伝わってくる講義本は存在する。代表的なものが日本の精神分析家の藤山直樹先生の『集中講義・精神分析』(岩崎学術出版社)の上下巻だろう。


日本は精神分析家が少ないのでその全ての講義を比較することも可能かもしれない。


北山修先生のことは多くの人が知っているだろう。彼もまた日本の精神分析家だが、歌手や作詞家としての北山修しか知らない人の方が多いかもしれない。大好きだった「あの素晴らしい愛をもう一度」の作者である北山修が、セミナーなどで指導してくれる北山先生であることは私もずっと繋がっていなかった。彼の本はどうだろう。私には読みにくい。なぜなら言葉の厚みがすごいから。圧倒されてしまう。でも話をきくとわかる。とても面白い。歌い手でもある著者は語りの名人でもある。本だとわからないまま置かれていた言葉たちが呼吸しはじめる。北山修の場合、さすがにメディアの人でもあるのでその語り口は探せばいくらでもきける。もちろん歌声も。


さて、先に挙げた藤山先生の講義本は突出している。語り口を知らなくても想像ができるほど字がものを言ってる稀有な講義録だ。彼が脚本を書く人で、演出家であったことも大きく影響しているのだろう。私は音楽も演劇も好きだが、音楽が圧倒的にその歌い手に目を向けさせるのに対して演劇はそれが演じられている空間全体にいつの間にか自分がとりこまれる体験をさせられる。それをどう感じるかはまた別の話で、その演劇の力を知る著者のこの本に対しても好き嫌いは分かれるだろう。もし、静かな語り口を好む人がこの本のテンションにおされてしまって途中で読むのをやめてしまうとしたらそれはそれでもったいない。精神分析の歴史とエッセンスをこれだけコンパクトに明快にまとめた本はほかにないだろうから。もしそういう場合は、同じ著者の『精神分析という営み 生きた空間を求めて』(岩崎学術出版社)を読まれるといいかもしれない。同じ著者とは思えない語りがここには登場する。これはその後『続・精神分析という営み』『精神分析という語らい』と続く第一冊目だが、もしこの中から一冊だけ選ぶとしたら断然これだと思う。誰もがそういうと思うがどうだろう。いずれにしても教育者としての語りと精神分析家としての語りとはこれほどまでに異なるとわかるだろう。


今こうして色々書いてはいるが、これらはあくまで精神分析家個人の公に向けた語り口の話であって、精神分析セッションでその分析家がどう語るかはその患者しか知らない、ということも付け加えた方がいいかもしれない。同じ分析家であっても患者によって、ときにはセッションごとに語り口は変わる。変わってしまう。あるいは変わったように感じてしまう。転移とはそういうものだ。精神分析における語りはその場の二人によって作られる。当然講義とは違う。書き言葉にできるのはほんの一部だ。


精神分析で起きる出来事を静かな語りの文字にすることに成功している本といえば、同じく日本の精神分析家の松木邦裕先生の『不在論』(創元社)がある。この本は精神分析が明らかにする根源的不安に近づく患者と治療者のこころの動きをフロイトが作り出した大きな川のような思索に乗せる。そしてすでにそこでの微細な震えや激しい揺れを体験したことのある著者が、患者のそれを静かに見守り、時に言葉にしながら共にいる。その様子が大人の語り口で文字にされている。なぜ大人かといえば、著者はこの二人がいずれ別れること、いやこの二人に限らず、私たちはみないずれひとりになるという現実に対する深いもの想いがあり、自らを律したような静けさを保っているから。


著者の息遣いを探しながら、感じながら本を読むことは楽しい。でも精神分析で言えばこれもすでに書いたことだがそれは「受ける」ものであって「読む」ものではないだろう。


幼い日に本で読んだ大切な人との別れ、異質なものに対する差別、自然の大きさ、私たちは体験することではじめてそれがどんなものかを知る。読むことと体験することは入れ子になっている。本を開いたら草花がニョキニョキと生えて、いつの間にか自分がそこに立っていた、そんな本があるのはそういうわけなんだろう。


ちなみにカレーが美味しい店は珈琲も美味しいという。逆も然り。神保町の喫茶店でカレーと珈琲と本で過ごす土曜日もいいかもしれない。

精神分析と「ここ」

東京にいるのにオンラインでしか会えていなかった人と会ったあとに、九州にいる人とオンラインで話した。会える距離なのに会えない人と会えない距離なのに話せる人。前者と後者では距離に対する意味づけが変わる。

精神分析はその距離に対して敏感であることを求めていると思う。


多くの患者さんが「ここにいると」「ここにくると」と表現するとき、時間という他者も治療者という他者もそこにはいない。カウチ に横になればなおさらそうだ。天井や壁といった境界のような、広がりのようなものを目にしながら自分のこころを言葉にしていく。


言葉にした途端、治療者の存在が気になることもあるだろう。急に時間が気になることもあるだろう。他者は消えたり現れたりする。


オンラインの世界ではこれがなかなか難しい。近づいたり離れたりということを感じることはできるけれどふと目の前に現れたり、いつの間にか夢見るように語っていたり、ということが生じない。


オンラインがいいか悪いかのはなしではなく、精神分析がそれとして可能になるための設定についてはいつも考えさせられる。


今日は久しぶりに生身で会えてよかった。距離を超えて話せてよかった。


自分にできることは多くの場合、環境に規定されるけど、そこを意味づけていく自由は自分にある。少なくとも今の日本ではあまり意識しなくてもそれができる。当然の権利と思う一方、ありがたいとも感じる。それが当たり前ではない国が身近にあることも考えてしまうから。


空間を守ること。空間と時間を馴染ませて「ここ」を生み出していくこと。いろんなイメージを膨らませているうちに日付が変わりそうだ。

精神分析と時間

一日長かった。と今思ったけど、この言い方はなんか変かな。「長い一日だった」ですかね、まぁ、そう思ってしまったことに正しいも間違いもないですね。

「一日が36時間あればいいのに!」という呟きをよくみます。中島みゆきの曲からきてるのかしら。それともみんなこんな似たような呟きを
するのかしら。そういえば私もしたことがあったかもしれません。


今日は「今日は8月32日です」と言いきっている人を見かけました。

精神分析の世界ではラカンの理論がもっとも学際的に知られていると思うのですが、彼らは1日複数回の短時間セッションを持ったりするそうです。


日本でよく見かけるカウンセリング時間は、1回50分、次の患者さんを迎えるまでは10分みたいな感じですね。1時間というものを区切るときに慣れ親しんだリズムをたまたま適応しているだけで慣習みたいなものなのでしょうか。1日は24時間です、というのもたまたま昼と夜の1クールでしょうから。最初は身体感覚から来ているものと想像しますが。この箱にはこのくらいの時間、この身体にはこのくらいの時間、とか。


私は医師との職場では15分程度の面接をたくさんしてきましたが、それが50分よりどうこうみたいなことはあまり考えていませんでした。そこではそれが普通でしたし、この体験が今にとても生かされているのは確かです。時間と空間の関係は量的なものではないのでしょう。


ラカン派の短時間セッションは、人のこころを常に活性化させておくための仕掛けのような印象が私にはあります。私はラカン派ではないのでよくわかりませんが、ぼんやり、その場からこころをなくす隙を与えないというか・・。私はそういう隙(それもまた時間ですが)こそ大切と思いますし、そのためにはリズムある有限性が必要と思うので、決まった時間でやっています。余白がないと人は生きていきにくいように感じます。


そう、なぜ今これを書いているかといえば、余白のことを考えていて、山本貴光さんの『マルジナリアでつかまえて』で体感しようと思ってsiriやアレクサにいうように(siri使わないし、アレクサ持ってないけど)「マルジナリア」と呼びかけていたのでした。お返事がないのは当たり前として、この時点でつかまえられない。どうしましょう。


マルジナリアって素敵な名前ですが、人の名前ではありません。本の余白のことです。前も書きましたね。この余白こそが、本を読む時間をそれぞれの固有の時間に、それぞれの固有の体験に変えていくのです。


精神分析もそういう時間を作る空間が大切ではないでしょうか。こころと時間、そして空間、いつも切り離せない私たちです。

精神分析の前提(例外)

オンラインミーティング中、にわかに外が騒がしくなった。いきなりの大雨。ビデオをオフにして窓が開いていないか確認してまわる。オンラインだと簡単に姿を消すことができる。

新宿では降ったけど上野では降っていない、など同じ東京でも時差があるから、私がいなくなった理由がすぐに共有されるわけでもない。いつもの場所でミーテイングが行われていたらみんなで手分けして慌てて窓を閉めたりするのだろう。

時間と空間の両方を共にする、精神分析の前提だ。と思っていた。が、コロナはその前提を困難にした。

が、(しつこいが)だからといって前提が崩されたわけではない。今のところのマスクと同様、オンライン導入は一時的なものだ。むしろ、今回のことでこれまでの前提がいとも簡単に変わるとしたら、一体、この技法はなんだったのだろう、とならないだろうか。

精神分析に命を燃やし、晩年、それを癌やナチスに奪われそうになってもフロイトは自分の家のカウチの横に座り続けた。フロイトが死を恐れなかったわけではないだろう。でも恐れたとしたら死のなにを?

フロイトが恐れたのは思考できなくなることであり、精神分析という仕事をできなくなることだった。フロイトは癌であれナチスであれ何かに殺されることを恐れてはいなかった。思考できる人間であることを失うこと、彼が恐れたのはそれだけだ。私たちはそれを受け継いでいる。

精神分析という文化を基礎づける「二人でここにいること」、今日も明日も噛み締めていこうと思う。

精神分析と音

音を集める。その話を聞きながら幼い日のことを思った。いつもの公園の木に耳をあて、蚕が桑の葉を食べる姿に耳を澄まし、友達と貝殻に耳をあて、「こうやっても波の音が聞こえるよ」と掌を丸めて耳を包み込んだ。海なし県育ちの私はあまり馴染みのない波の音をこうやって作り出し海を思った。様々な楽器の音も身近だったけど身ひとつで感じられる音をいつも探していた気がする。


耳鼻科も身近だった。穴つきの反射鏡、耳を覗くコーン見たいな器具、鼻の穴を広げる道具、耳の検査をする昔のカラオケボックスみたいな部屋。待合室はいつも人で溢れていたからいつも隅っこで本を読みながら待っていたけど診察室に入ると面白いものがたくさんあった。

ある日、私は、高い音や低い音が聞こえにくい子供がいると知って、私はわりとどんな音でも普通に聴こえていると知った。聞こえないってどんなだろう、と思って「聞こえたら押してね」と言われたボタンを押さないことも考えたけど聞こえてしまっているからそれもできなかった。

音を集める。ああ、そうか、目が、と思いながら聞いていた。私たちはどこかしら弱いところを抱えて生きている。そしてそれをほかのところで補っている。ひとりで自然にそうしていることもあれば、こういうところが弱いけどこういうところが強いからこっちを生かそうね、とアドバイスをもらうこともある。

精神分析は何をしているのだろう。「ああ、そうか、目が」というようにその人のことを何度も気づかされて、それがどんな体験なのかを思い巡らす。自分とは異なる感覚を持つその人のことをとてもよく知ることになる。「知らないくせに」「わかるはずがない」と言われながら、思われながら、「そうなんだけど」と言いながら、思いながら一緒にいる。そうやって「私たち」の体験を積み重ねる。少しずつ響き合い、重なりあい、離れては戻ってくる。

楽しみにしていた音が消えてしまったと聞いた。それはどんな体験なんだろう、と考えた。

成長したら聞こえなくなってしまった音がある。ひとりのときは聞こえなかった音がある。口の動きから聞こえてくる音もある。耳鳴りの向こうだからキャッチできた音だってある。

フロイトは「平等に漂う注意」を精神分析技法の原則とした。これは「ただ聞く」ということでもあるが、そこで働いているのは単に耳だけでない。私たちは全身で聞いている。

友達の耳に丸めた手を当て、二人で耳をすますとき、私たちは全身で海を待っていたんだと思う。行ったこともないのに。

精神分析と選択

日本の心理カウンセラーは、いわゆる折衷派が多い。精神分析、分析心理学、クライエント中心療法、行動療法、認知行動療法、家族療法、コミュニティ心理学、遊戯療法、集団療法など色々あるが、ほとんどの臨床心理士はそれがどんな基礎仮説をもった理論モデルかくらいは説明できる。

それでもあえていうなら何を専門にしているのか、と聞かれるとしたら、日本の場合はゼミの恩師が何を基礎としているかによって口頭伝承的に治療文化の選択がなされていることが多いのではないだろうか。そしてそれは何も学んでいないよりははるかに重要であることは間違いない。

いわゆるカウンセリングは学派以前に心理臨床家としての常識を持っていることで十分効果をあげることができる。そのため、どの理論モデルにおいても、患者もしくはクライアントのこころの世界と出会うときに大切にしている事柄はほとんど変わらない。

津川律子先生が、2007年9月発行の雑誌『臨床心理学』の連続講座で、日本の精神分析的臨床家である馬場禮子先生の『精神分析的心理療法の実践 クライエントに出会う前に』を引用して「これが精神分析??と思う読者がいても不思議がないくらい心理臨床家として常識的な内容である」と書いているが、そうなのである。人のこころと出会うのにそんなに様々な道具立てがあるわけではない。まず見立てをしましょう、ということである。そしてそれこそが難しく、それは学派以前のことである。岩崎学術出版社のHPには馬場先生のこの本について「学派を超えて通用する心理療法の基本とその技術」という説明をつけている。折衷派の心理カウンセリング、それが日本のカウンセリング文化の王道といえるだろう。

一方、学派というのは口頭伝承というより体験知の集積でもあるため、その文化に十分に馴染むことが必要になる。それこそがその学問がそれであるための条件で、それは自らがその臨床を体験し、営むことにほかならない。

規定された基盤のもと、固有のこころをもった相手と自分を出逢わせることが学派に生命を与え、基盤はさらに強固なものになっていくだろう。もちろんその逆もあるかもしれない。基盤の成り立ちを染み込ませるのではなく、折衷派のつねとして、その学派の部分を使用することで、学派の基盤自体が危うくなることも。

観光客がその土地の文化資源を活用し、方言もうまく使いこなし、いつのまにかその土地に根付くことだってあるだろう。しかし、全国を旅してきた私としては、今ここという空間があってこその出会いというものを大切にしたいと感じる。だから毎日都会の高層ビル群に紛れた小さな部屋でカウチ の横に座り続ける精神分析を選択した。

松木邦裕先生が『不在論 根源的苦痛の精神分析』(創元社)で描き出したように精神分析は最初から知っていたはずの「不在」と出会うために、そのプロセスにおける根源的な苦痛をふたりで持ち堪えることに重きをおく。設定とプロセスは常にセットであるために変更に対しては不寛容だ。こころは小さな変化にも大きく反応することを体験的に知っているから。

何かを選ぶことは何かを失うこと。育つということはそういうことだ。喪失を十分に生きるための選択を大切にしたいと思う。

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